雑念書き殴り

時々考え込んだことを無駄にしないために書き留めておく

Palmにまつわる携帯デバイスの思い出

新型コロナウィルスの蔓延で外出自粛を余儀なくされる中、新しく発売されたiPhone SEを購入した。新しいiPhone SEで必要なセットアップをしながら、ふと自分の携帯デバイス遍歴に思いを馳せる。思い起こせばもう20年近くも前に初めての携帯デバイスを購入したんだったっけ。それがPalm OSを搭載するPDAと呼ばれたデバイスとの出会いだった。せっかくだから、自分のPalmバイス遍歴を記憶を頼りに書き起こしておこう。

 

1台目 IBM WorkPad c3

 

当時、大学の研究室で博士課程の学生として実験していて、一番の悩みはボスの気まぐれだった。毎週、研究室全体のセミナーと、自分が所属する小さな研究グループでのディスカッション、そして論文の輪読会が絶対参加のミーティングとして行われていた。これらのミーティングは本来曜日が決まっていたのだが、ボスが自分の都合で頻繁に曜日を変更するのが悩みだった。大学に入って以来、自分のスケジュールは大学生協で購入した手帳を使って管理していたのだが、毎日どころか一日の間に何度も曜日が変更され、その度に手帳のスケジュール欄を書き換えているとあっという間に訂正だらけで書く場所がなくなってしまうのが常だった。しかし、曜日を間違えてミーティングをすっぽかそうものなら烈火のごとく怒り出すボスだったので、手帳よりも効率のいいスケジュール管理方法はないかと頭を悩ませていた時、ふと噂に聞いたのがPalmの存在だった。

 

当時、Macを開発するAppleが普及に力を入れていたのがNewtonと呼ばれる未来から来たようなデバイスだった。Newtonは持ち歩いて使う、個人の連絡先やスケジュールを管理してくれる夢のデバイスだった。付属のペンで手書きで入力するとデジタルな文字に変換されるシステムは非常に魅力的だったのだが、いかんせん、高いし重いし電池が持たないと、使いこなすにはなかなか骨の折れるデバイスだった。Newtonが夢の現実化に苦労している一方で、Newtonを見限ったMacユーザーの間で話題になっていたデバイスPalmだった。必要最小限に割り切った性能に絞ることで、軽くて電池が長持ちする。Newtonとは全く逆の発想のデバイスだった。いち早く飛びついた有志のユーザーによって日本語化され、連携して動作するPalm DesktopによってMacとデータを同期し、Mac上でもスケジュールや連絡先が管理できるのが魅力だった。しかし、自身で英語版のPalmを日本語化するのはハードルが高く、なかなか踏ん切りがつかないでいた。

 

ところがこの事態を一転させたのが、PalmからIBMへのOEM供給の開始だった。当時、サーバーから個人端末までのトータルソリューションの提供を目指していたIBMが自社のPCと連携して利用する個人データ管理デバイスとしてWorkPadという名前でPalm端末の販売を開始したのだ。このWorkPadは日本でも販売され、しかも日本市場に投入されるモデルは最初から日本語化されたOSを搭載し、しかもスタイラスで入力するエリアに最初から日本語変換に必要なボタンが配置されているといういたれりつくせりの日本語化仕様だった。そして、そこはかとなく流れてきた噂が、ソフトウェアの追加やパッチも一切必要なくPalmから配布されているMac版のPalm DesktopがWorkPadとデータの同期が可能で日本語も文字化けしないという話だった。そこでいてもたってもいられなくなって充電式のPalm VのOEM版であるWorkPad c3に飛びついた。ある意味ヒトバシラーな挑戦だったが、噂通り何の問題もなくMacとWorkPadの間で入力したデータが同期でき、無駄遣いに終わらなくてほっとしたことを覚えている。

 

独自の入力方式であるGraffitiも付属のゲームをやり込んで頑張って1週間で体に叩き込んだ。WorkPadの導入はすばらしかった。何しろ、毎日どころか一日何回も変更されるミーティングの曜日変更も、MacPalm Desktop上でスケジュールをドラッグして動かすだけで済むのだ。そしていつでもポケットからWokPadをとり出せば、スケジュールをすぐに確認出来る。かくして手帳とは完全におさらば、毎日、研究室から帰る直前にMacとWorkPadを同期して帰れば、翌日のミーティングのスケジュールをいつでも手元で確認出来る安心の研究室ライフの始まりだった。その後、帰宅した後にミーティングの曜日が変更され、それを知らなくてミーティングをすっぽかして怒鳴られるという理不尽な研究室ライフとなるとも知らずに。

 

2台目 Palm Palm Vx

 

翌年、劇的な変化が起きる。Palm社の日本参入である。IBMからのPalmバイスの売れ行きが好調だったため、WorkPadに搭載された日本語版Palm OSが本家Palmにフィードバックされ、Palm社自身が最初から日本語版Palm OSを導入したPalmバイスを日本で販売することになったのだ。Palm Vのメモリを増強したバージョンであるPalm VxはIBMからもWorkPad c3(50)の名前で発売されたが、公式にMac対応を謳う本家Palm社版はMacユーザーにとってはまさに念願のモデルだった。既にWorkPadにどっぷり嵌まってアプリをインストールしまくって慢性的なメモリー不足に悩まされており、メモリーが2MBから8MBに拡張されたPalm Vxはまさに待ち望んだパワーアップだった。それまで使っていたWorkPad c3を布教のために後輩に譲り、すぐさまPalm Vxに乗り換えた。当時、Palm社の日本参入を祝ったキャンペーンで5色セットのスタイラスを貰うことが出来たが、この5色スタイラスは結局一本も使わずじまいだった。

 

そして、このPalm Vxの購入と同時に、生まれて初めて携帯電話を契約した。その端末がNTT DoCoMoから発売されたNokia NM502iだ。当時のiモード端末としては異常なぐらい狭いモノクロ液晶という時代遅れと思われがちな端末だったが、どうしてもこの端末でなくてはならなかった理由が携帯で唯一IrDAに対応していることだった。当時の携帯はどの端末も赤外線通信機能が搭載されていたが、その全てがIrTAというアドレス帳などを端末間でやり取りするだけのIrDAに機能制限をした簡易的な通信機能だった。ところが、日本市場など全く分析せずに投入されたNokiaの端末はこの赤外線ポートに全く制限をかけず、通常のシリアルポートとして使用出来るというIrDAのフル機能をサポートしていたのだ。一方、Palmにも従来から赤外線通信機能があり、それによって同様にデータを端末間でワイヤレスで転送できるようになっていて名刺交換などに使われていたのだが、この赤外線ポートもIrDAのフル機能をサポートしていた。そのおかげで、PalmNM502iを組み合わせると、Palmから赤外線経由でNM502iをモデムとして使うことができ、Palmからのインターネット接続が可能になったのだ。そのおかげで、いつでもどこでも自分のメールボックスPalmから見ることが出来るようになった。その結果、いつでもどこでもメールによって仕事がねじこまれるという地獄の生活が誰よりも早く始まったのだけれど。

 

3台目 Palm Palm m505

 

Palm社の参入によってにわかに活気づいた日本のPDA市場だったが、それによって起こった最大の事件はSONYの参入であった。Palm OSをライセンスしたSONYが独自にPalm OSを拡張しまくったCLIEという端末を日本市場に投入してきたのだ。SONYによって独自に拡張されたCLIEの最大の特徴はカラー液晶を搭載した上位モデルの存在だった。Palm OSは内部的にはカラー情報を保持することができたものの、肝心の液晶がモノクロだったのでグレースケールの表示だった。それはそれで情報を見るにはシンプルで見やすかったしカラー液晶はバッテリーを消費するのでPalmの精神であるZen of Palmにはそぐわないものだったが、それでもカラーで表示されるCLIEの液晶は反射液晶の暗い画面でも輝いて見えた。しかし、Palmユーザーの多くがCLIEに浮気した中で、CLIEの独自アプリの大半がWindowsとしか連携出来ないことが気に入らず、CLIEを絶賛する声にも関わらずかたくなにVxを使い続けた。しかし、その我慢が報われる時が来る。Palmからの公式のカラー対応端末であるm505の発売だ。それまで指をくわえて見ていたカラフルな画面に大興奮。そして、公式にカラーがサポートされたことで一気にアプリもカラー対応が進む。まさにPalmの日本での全盛期であった。しかし、CLIEの最大の改革だった倍の解像度を持つハイレゾ液晶はまだこの時点では公式にはサポートされず、相変わらず低解像度な画面のままであった。

 

当時、自分のPalm環境で画期的だった出来事が二つあった。その一つが、Just SystemのPalm市場への参入である。WorkPad c3以降、正式に日本語変換機能が提供されていたとは言え、その変換効率はお世辞にもいいものとは言えなかった。英語版を日本語化して使用することを好む人たちの最大の理由が、公式の日本語変換機能の貧弱さだった。その点、英語版を日本語化すると自前の日本語変換FEPを導入することになるため、変換効率の高いPOBoxを好む人たちにとってはこちらの方が快適だったのだ。ところが、日本のPalm市場が拡がった結果、Just SystemがATOKPalmに移植して公式に発売したのだ。デスクトップ版のATOK程ではないものの、しっかりこなれたFEPが初めてPalmに搭乗したのだ。このATOK for Palmは日本語版にインストールすると、Graffitiエリア内の日本語変換ボタンを使って効率よく日本語入力ができ、日本語版が最強の日本語入力環境になったのだ。当時、Palmから発売されていた折り畳み式のキーボードを購入し、いつでもどこでもATOKで日本語が入力出来る環境を整えて活用した。

 

もう一つの出来事はBluetooth SDカードの導入である。Palm Vxの世代からPalmの背面にSDカードスロットが搭載され、内蔵メモリーの不足を外部メモリーで補うことが出来た。そのSDスロットがm505世代でSDIO規格にアップグレードされた。これによってSDカードスロットを介して拡張カードを搭載することが出来るようになったのだ。残念ながらSDIOによる拡張カードはほとんど発売されなかったが、発売された貴重なカードの中の一つがBluetooth SDカードである。当時、DoCoMoのネットワークはそれまでのPDCからより高速なFOMAへと移行が進んでいた。しかし、NM502i以降、IrDA対応の端末が全く発売されなかったため、渋々時代遅れのNM502iを使い続けていた。しかし、Bluetooth SDカードの購入で道が開けたのだ。富士通からF900iTというBluetooth対応のFOMA端末が発売され、Bluetooth SDカードとの組み合わせでそれまでのIrDAからBluetoothの接続へと切り替えることができたのだ。F900iTという端末はお世辞にもいい端末とは言えなかった。時代遅れのごつい二つ折りで見るからにダサい端末だった。しかもBluetoothで待ち受けをすることが出来ず、Bluetoothを使う時にはいちいち端末のメニューからBluetoothをオンにする必要があり、しばらく使用しないと勝手にBluetoothがオフになってしまう仕様だった。Bluetoothなんて誰が使うんだ?という今では考えられないぐらいの扱いだったのだ。実際、通信をしようと思ったら携帯をとりだして開いてメニューからBluetoothをオンにし、その後、m505のSDカードをBluetooth SDカードに入れ替えて初めて通信が開始できるという非常に手間のかかる手順が必要になり、それまで赤外線ポートを向かい合わせて接続するだけで通信出来たのとは大違いであった。しかし、一度通信を始めてしまえば携帯をポケットに戻してPalmだけを持って通信できるので、赤外線ポートがずれただけで接続出来なくなるそれまでとは段違いの快適さだった。未来を先取りしたような感覚だった。

 

4台目 Palm Tungsten T5

 

このころからPalm社に暗雲が立ちこめる。日本市場で独自に改良したSONYCLIEが席巻しすぎたため、保守的なデバイスであるPalmの売れ行きが思わしくなくなったのだ。本国アメリカでは、いよいよCLIEが拡張したハイレゾの仕組みをPalm OSに取り込んだ初の端末であるTungsten Tが発売されていた。Tungsten Tはハイレゾを取り込んだだけではなく、Graffitiエリアが必要ない時は隠れていて、入力したい時だけガッチャンコと下部をスライドさせるとそこにGraffitiエリアが出現するという厨二病的ギミックが最高にそそる端末だった。しかも、Tungsten TはBluetoothが内蔵された初の端末である。これでBluetooth SDカードをいちいち差し替える必要がなくなる、と喜んだものの、待てど暮せど日本語版の発売の話が出ない。本国ではさらにGSM携帯と融合してキーボードを搭載した通信特化型の端末なども発表されていたが、通信方式が違う日本では発売されるはずもなかった。しかし、メインラインの端末が日本語版で発売されない事態は異常である。その後、Tungsten Tはさらに進化し、CLIEが導入したバーチャルGraffitiエリアも取り込んだ。Graffitiエリアを液晶画面で表示し、入力が必要ない時には通常の液晶表示エリアとしても使えるという仕組みだ。T3はそれまでのTungsten Tのスライドギミックそのままにこれを導入したので、スライドして液晶が広くなってもそこがGraffitiエリアなのであんまり意味がなかったのだが、それでもGraffitiエリアを消すと広い画面になるのは画面の狭さが唯一の悩みだったPalmユーザーにとっては光明だったのだ。しかし、さすがにスライドギミックとの相性の悪さに気が付いたのか、次のTungsten T5ではスライドギミックが廃止され、最初からバーチャルGraffitiエリアも含めた縦長液晶の形式に落ち着いた。そして、この頃、とうとうPalm社の日本市場からの撤退が発表される。英語版の端末のサポートは引き続きアジア圏のセールスエリアで続けるものの、とうとう日本語版の端末は二度と発売されないことが確定したのだ。

 

ここでとうとう英語版のPalmを日本語化して使うことを余儀なくされる。既にPalmのない生活など考えられなかったので、秋葉原のイケショップにダッシュし、日本市場から消え去る前にTungsten T5を購入した。当時いくつかの日本語化の方法があり、どの日本語化ソフトウェアを使っていたのかはもはや覚えていないが、この時からずっと手放せないソフトウェアとなるのが先に紹介したATOK for Palmだ。このソフトウェアのおかげで英語版を日本語化した端末でもそれまでの日本語版端末と遜色の無い日本語入力が行えたのだ。ずっと時代遅れのm505を我慢して使っていた身にとっては、ハイレゾで広く明るくなった液晶とm505からは比べ物にならない潤沢なストレージ量はまさに夢の世界だった。この頃、日本のPalm市場を席巻してPalm社の撤退にまで追い込んだSONYCLIEも独自拡張が肥大化しすぎて迷走した結果あっさりと失速し、損切りの早いSONYはさっさとCLIEを終息させる。Palmを見限ってCLIEに流れたPalmユーザーは居場所を失いSHARPZAURUSなどに流れていく中で、自身は英語版Palmが使い物になる限りPalmを使い続けようと決心したのだった。

 

この頃、もう一つの大きな変化が自身の端末環境に起きた。当時、近いうちに海外に研究場所を移すことを決心し、携帯電話もDoCoMoの端末を捨て海外標準の3G端末に乗り換える必要が生じていた。海外製の3G端末は日本ではFOMAネットワークにしか接続出来ないが、既にFOMAネットワークは十分エリアが拡がり、PDCで繋ぐ必要はほとんどなくなっていた。そこで、日本にいる間も海外に出てからも使える3G端末を探していたところ、香港を拠点とする携帯ディーラーが怪しげな端末を調達したという噂を耳にする。それは、日本でもSoftbankから発売されていたNokia705NKという端末のグローバル版であるN73に日本語ファームウェアを入れたものだった。日本で発売されていた705NKは日本向けにカスタムされているため、SIMロックされていて海外で現地のSIMを挿すことが出来ない。一方、グローバル版のN73はSIMロックが解除されている変わりに日本語が全く使えない。しかし、N73の日本での発売のためにノキアが開発した日本語ファームウェアノキアのサイトでダウンロード出来る状態になっていたのだ。この日本語ファームウェアは試験的に作成されたものでSoftbank705NKのようなSoftbankネットワークで利用出来るサービス向けのアプリ等は入っていないのだが、それでもノキアの本気が伺えるのはちゃんとSoftbank版と同じATOKベースの日本語変換FEPが搭載されている。このファームウェアを携帯ディーラーの修理用インターフェースを用いてN73に上書きした端末という怪しげなものだ。実際に入手した端末は外装はSoftbank版の705NKで基板だけがグローバル版のN73に入れ替わっているという代物であったが、それでも謳い文句どおり、ネイティブなN73でありながらメニューなども大半がきっちりと日本語化されているというまさに求めていたものだった。後にも先にもこの機種以外でノキアが自社で日本語ファームウェアを公開したものは存在しないという貴重な端末である。この端末にFOMASIMカードを挿していたものだから、誰もがSoftbankユーザーだと誤解してしまって非常に困った。そこで、わざわざ修理用のN73のフェイスパネルを輸入してSoftbankロゴの入っていない状態に改造までした。このN73はSymbian S60というOSを搭載しており、Softbank705NKと違って世界中で開発されているSymbian S60用アプリを自由にインストールすることができた。当時、NokiaはこのSymbian S60搭載の携帯電話を真にスマートな電話という意味でスマートホンと呼んでいた。まさにこの端末で自分はスマホデビューしたのである。

 

5台目 Palm Palm T|X

 

海外の研究所に研究場所を移したものの、自身の使うデバイスが全部英語でしか使えないというのでは甚だ居心地が悪い。しかし、日本語化したN73と日本語化したPalm T5によって日本にいる時と変わらない環境で研究ができた。しかし、新しいデバイスへの欲求は押さえられないもの。Tungstenシリーズの新しいモデルが出ると聞いていてもたってもいられず販売店へと直行した。日本ではもはやイケショップ辺りでしかPalmは手に入らなくなっていたが、海外ではまだ普通にPalmはショップで手に入る端末だった。発表された端末はTungsten T5そっくりのシェイプながらTungstenという名称は消え、T|Xという名称になっていた。おそらくTungsten XとなるはずだったものがTungstenブランドを捨てることになってT|Xになってしまったのだろう。T5からストレージが少し縮小されたことに多少の躊躇いはあったが、もともとコンパクトで効率のいいPalmアプリではT5の膨大なストレージを使い切ることもなかったので、バッテリーが消耗して心許なくなっていたT5からT|Xへの乗り換えを決意した。ちなみに、T5はその後、補修用のバッテリーを入手して自分でハンダ付けして交換して延命させたのだが、それは別の話。T5と実質的にほとんど変わらないように見えたT|Xであったが、最大の変化はWiFiの標準搭載だった。それまでもSDIOカードでWiFiカードが発売されていて、当然、購入して必要とあればWiFiも利用出来るようにしてあった。しかし、BluetoothによるシームレスなT5からのN73を経由したネットワークが便利すぎて、いちいちWiFiカードを挿してネットワークに繋ぐのが煩わしかった。まるでm505で我慢していた時代に戻るような感覚だったからだ。しかし、T|XでWiFiが内蔵されたため、研究所内のどこででもT|Xさえあればネットワークが使えるようになった。おかげでお茶をしながら論文を探したりなど、自分のデスクに張り付かなくても研究ができて重宝した。しかし、このT|Xが購入した最後のPalm端末となった。Palm社はとうとう倒産し、資産を全て売却する。これによって新しいPalm端末が販売されるという希望は完全に打ち砕かれたのだ。

 

この当時、日本で入手して海外に持ち込んだ怪しいN73も長く使って時代遅れになり、新しい携帯が欲しくなってきた。ここで思い出したのはPalm全盛期に一部のマニアに根強い人気のあった端末がPsion Series 5である。このPsionは開くとせり出してくるキーボードのデザインが美しいPDAであった。このPsion端末はNokiaSymbian OSを搭載しておりPalmと同様にユーザーが開発したアプリを自由にインストールできた。このPsion端末やNokiaSymbian OS端末はPalmと人気を二分するPDAだったのだ。残念ながらPalmと違ってPsionはその後伸びることなく消滅するが、PsionSymbian OSの根強いファンになった人たちはNokiaから発売されていた様々なSymbian OS端末を日本語化して使っていた。そのNokiaにはCommunicatorというキーボードがついた大型液晶の携帯モデルのシリーズがあり、その姿はPsionほど優雅ではないもののまさにPsionのように横長画面でキーボードが付いたミニノートパソコンのように使える端末だったのだ。そのCommunicatorの精神を引き継いだ端末がN97だ。スライドすると自動でせり上がって見やすい角度に固定される大型液晶画面とその下から現れるミニキーボード。WiFiBluetoothのようなモダンな通信も標準搭載し、まさに万能通信端末だった。そして、最も後押ししたのが、OS標準でアドレス帳やカレンダーを搭載し始めたMacが様々な携帯デバイスとデータを同期する仕組みを搭載したことだった。Palmもこの同期の仕組みにMissing Syncというサードパーティーアプリによって乗っかることが出来たのだが、全世界にユーザーがいるSymbian OSもまたこの同期機能を使ってデータを同期することができた。これによって、Mac上で管理するアドレス帳やカレンダーをPalm T|XにもN97にも同期できるようになったのだ。この事が後押しをしてN73から日本語化したN97への乗り換えを決意させた。しかし、このことがPalm T|Xの重要性を低下させる。ことネットワークに関することであればPalmを使うよりもN97を使った方が楽になってしまったのだ。キーボードがいつでも使えるとだんだんGraffitiでしか入力出来ないT|Xが億劫になってくる。次第にPalmがメインデバイスから閲覧デバイスへと自身の生活の中での役割が変化していってしまった。

 

そして、Palmの役割に終止符を打ったのがiPod touchである。最初はテンキーが液晶に表示される変な携帯電話でしかなかったiPhoneが後にアプリを自由にインストール出来るようになり、そしてそのデータを管理するためにMacと同期できるようになった。そして、そこから携帯の通信機能を省いた端末としてiPod touchが搭乗する。iPod touchも最初はiPhoneのような画面をもったiPodでしかなかったが、iPhoneと同様にアプリをインストールできるようになり、そしてMacとデータの同期が出来るようになる。その第三世代になるとWiFiBluetoothも搭載していて自由に通信ができ、これまでPalmで管理してきたアドレス帳、カレンダー,メモなどの全ての機能が標準搭載され、Mac側にもそれらと同期するアプリが用意され、Palm Desktopで管理していたデータを全てMac標準搭載のアプリで扱えるようになったのだ。ここに至ってPalmでしか出来なかったことが全てiPod touchで出来るようになった。もはや将来新しい端末の出ることのないPalmに、それを完全にリプレースすることが出来るiPod touchが登場したのだ。ここにきて、ついに自身のPalmライフを完全に終焉させるタイミングが到来する。iPod touch第三世代発売と同時にダッシュで研究をさぼってアップルストアに行って購入、それまでPalm Desktopで管理していたデータをこつこつ手作業で全てiPod touchに移行し、とうとうPalmが完全に必要なくなる時が訪れた。

 

iPod touchの導入は日本語版Palmの導入と同じぐらい劇的に自身の環境を変化させた。やっぱりネイティブで日本語版のデバイスの方が圧倒的に使いやすいのだ。アップルのデバイスは最初から日本語対応しているため、iPod touchも言語で日本語を選ぶだけで隅々まで日本語で使えるようになる。そうなると、それまでPalm T|Xのお株を奪ってきたN97があっさりとただの通信デバイスに成り下がる。日本語化によって無理矢理日本語が使えるようにしたN97と比べて、メールやインターネットでも圧倒的にiPod touchの方が使っていて楽なのだ。そうなるとだんだん通信と端末が分離していることが億劫になってくる。しかし、当時のiPhoneはキャリアからSIMロックされた端末しか購入出来なかったため、日本と海外を行き来する自分には日本のSIMを挿しても使えない海外版のiPhoneは購入する意味がなかったのだ。しかし、iPhone4でその環境ががらりと変わる。とうとうアップル自身がアップルストアSIMロックがかかっていないiPhoneを発売することを発表したのだ。その日から近所のアップルストアに毎日のように在庫の問い合わせをしていたが、あまりの人気で何度問い合わせても売り切れて在庫がない。そんな時に、地方の大学に学会に行くチャンスがあり、人口の少ない地方都市のアップルストアなら在庫があるかもしれないと学会をこっそりと抜け出してアップルストアに行って、やっと手に入れることができた。iPhone4に乗り換えることで、それまでずっと通信と端末が分離していた環境から、やっと通信と端末が一体化した環境に移行することができた。今の誰もが当たり前だと思っているスマートホンの環境、そこに辿り着くまでにいやはや様々な端末を経たものである。

 

そんなことを考えているうちにiPhone SEへのデータの移行が完了した。Palmから始めたPDAや通信環境は、今やこんなに高度なデバイスへと変化した。しかし、これで十分だと思われたPalmがいつの間にか物足りない端末へとなってしまい、消えて行ったように、いずれはiPhoneではもうダメだという時代が来るのだろう。そんな時、自分が選ぶ新しい端末はどんなものになっているのだろうか?