雑念書き殴り

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iPS細胞バンクの致命的な問題点

iPS細胞バンクから提供されたiPS細胞が、動物実験で移植した先で癌化したというニュースが世間を賑わせた。

 

iPS細胞による再生医療の基本は、患者さんの細胞からiPS細胞を樹立して、そのiPS細胞から患者さんの病気に見合った臓器を形成し、その臓器を移植して戻すことによって治療する手法である。この新しい技術が諸手で歓迎された最大の理由は、移植に常に伴う深刻な悩みである拒絶反応の心配がないことである。

 

我々の体は全ての細胞がある一つのタイプの白血球型抗原(HLA)と呼ばれるものを持っている。これは、一群の細胞表面に提示されるタンパク質のセットである。それぞれのタンパク質は細胞の染色体上に遺伝子が存在し、その遺伝子それぞれが人によって微妙に異なる配列を持っており、その種類は何十種類に及ぶことが知られている。複数の遺伝子で、それぞれに何十種類かの違う組み合わせになるので、その全ての組み合わせのパターンは何万通りにも及ぶ。このHLAのパターンが、個々人を識別するタグとなる。免疫細胞はこのタグが一致する細胞を自身の細胞と認識する。もし、HLAを構成するタンパク質の一つでも異なると、免疫細胞はそこを認識し、異物として攻撃して排除する。

 

臓器移植にはこの免疫機能が常に大きな難関となる。移植する臓器が移植される人と異なるHLAを持っていると、免疫細胞が異物と認識してせっかく移植した臓器を攻撃して壊してしまうからだ。これが拒絶反応だ。そのため、臓器を移植するためには移植する臓器を提供する人と移植される人の間でHLAが一致することが必要となる。その確率はかなり小さいので、移植を待つ人は自身のHLAと一致する臓器が提供されるまで何年も辛抱強く待たなければならない。

 

そこに登場したiPS細胞の技術はこの問題に新しい光明をもたらした。iPS細胞は少量の体の細胞をとりだして、それらをいったん初期化することによって再び様々な臓器に生まれ変わらせることを可能とする技術だ。もしこのiPS細胞を用いて移植に必要な臓器を作ることができたならば、もともと細胞をとり出した人と全く同じHLAを持っているので、移植において免疫細胞による拒絶反応は原理的に起きないことになる。現状でiPS細胞によって再び作ることが出来る臓器の種類は極めて限られているが、将来技術が進歩して様々な臓器を作ることが出来るようになれば、移植における最大の問題が一気に解消することが期待される。

 

ところが、iPS細胞が実際に医療に応用されるには、もう一つ大きな問題がある。それは、iPS細胞を樹立するためのコストである。一人の患者から細胞をとりだしてiPS細胞を樹立するためには、現状で1千万円程度のコストがかかると言われている。もし、一人一人の患者さんにこの技術で治療を行うとすれば、患者それぞれにこれだけのコストをかける必要が生じる。これは、とてもじゃないが保険制度でまかなえる額ではない。そこで考え出された方策がiPS細胞バンクだ。

 

実はHLAは必ずしも完全に一致しなければ異物と認識されるわけではない。HLAを構成するタンパク質の中には、複数のHLAの型と同一だと誤認識されるタンパク質が存在することが分かってきたのだ。このようなルーズに認識される特別な型のHLAを持っている人の細胞は、厳密な型を持っている人に比べてはるかに多い人数の人とHLAが同一と認識され、移植に適合するのだ。そして、このようなルーズなHLA型を持った細胞を丹念に集めれば、およそ140種類の細胞を集めることで適合する日本人の割合は9割にも上ると推測された。それまで、移植するための臓器を作るためのiPS細胞は患者さん自身から作るしかないと考えられていたのが、あらかじめiPS細胞バンクに集めておいた細胞の中から患者さんと同一と誤認識されるHLA型を持つ細胞を選び出し、その細胞から移植臓器を作成して治療に用いることができる可能性が出てきたのだ。しかし、実際にこれを治療に使うためにはまずは日本人の大半をカバーできるだけのルーズなHLA型をもつ細胞を集めなければならない。そこで、iPS細胞による治療技術の確立と並行して、このiPS細胞バンクが先行して設立され、将来iPS細胞による移植が可能になった時のために細胞を集め始めることが決まったのだ。そうして、このバンクは多額の資金が投入される巨大事業として始まった。

 

今回ニュースで問題になったのは、この先行して始まったiPS細胞バンクから提供された実験用のiPS細胞が複数の動物実験で移植後に腫瘍になってしまったという問題だ。これはiPS細胞バンクの細胞が適切に品質管理されていないことを示唆する。iPS細胞樹立時にあやまって正しくiPS細胞にならなかった細胞が混入した可能性と、iPS細胞樹立後に提供するために培養して細胞の数を増やす段階で細胞に腫瘍になりやすい変化が起きてしまった可能性が考えられるが、どちらであったとしてもiPS細胞樹立から提供にいたるまでの品質保証が十分でないことを意味する。そのような状態で保存された細胞は治療には使うことが出来ないので、せっかく先行して細胞を収集してもいざ治療技術が確立した時に安全に提供できるのかという疑問が投げ掛けられたのだ。

 

しかし、細胞バンクには品質管理の問題は付き物だ。かつて、ATCC(American Type Culture Collection)という世界最大の細胞バンクでも品質管理の問題が生じたことがある。ATCCは細胞を用いた研究の黎明期から研究者から預託された細胞を管理・培養し、必要とする研究者に分与を行ってきた機関だ。ある時、このバンクから分与された細胞がリクエストした細胞と異なるのではないか?という疑問がよせられた。特殊な細胞をリクエストしたはずなのに、届いた細胞はどう見てもその種類の細胞とは思えないというのだ。よくよく調べると届いた細胞はHeLa細胞と呼ばれる癌細胞由来の一般的に実験に広く用いられている細胞であった。調査の結果、この細胞のすり替わりは通常の細胞を培養して増やす過程で起きていたことが判明した。増殖が速い細胞が混入すると、いつの間にか培養している細胞が全部HeLa細胞に置き換わってしまうのだ。そして、せっかく収集したATCCの細胞株の大多数がいつの間にかHeLa細胞が混入してしまっていたことが明らかとなったのだ。

 

これは、当時のまだ未熟な細胞培養技術では防ぎようがないことであった。この事実が判明した後、それまでの細胞培養の手法の問題点が徹底的に洗い出され、その結果、培養している細胞に他の細胞が混入しないための基本的な細胞培養の技術がようやく確立したのだ。iPS細胞バンクもまたこれと同じ試練を受けているに過ぎない。iPS細胞という新しい種類の細胞技術が適切に品質管理出来るようになるためには、実際にバンクを運用して問題点を洗い出すしか方法がないのだ。iPS細胞バンクの役目は、将来の治療にむけてiPS細胞を管理し、分与するだけに留まらず、このバンクという資産を適切に運用していくためのノウハウを確立していくことも大きな役目であることを忘れてはいけない。

 

しかし、iPS細胞バンクの本当の問題点は、iPS細胞を樹立、維持、分与していくための品質管理がまだ確立していないということではない。そんな問題はきちんとノウハウを積み上げていけばいずれ解消するものなのだから。本当の問題点は、iPS細胞自身のゲノムにある。

 

人が癌を患う可能性はその人自身の持つゲノムに大きく依存することが分かっている。癌細胞は自身の持つ正常な細胞の遺伝子に異常が起きて変化したものである。遺伝子に異常が起きて癌になる確立は、その遺伝子そのものに大きく依存する。人の遺伝子は同じ遺伝子でも人によって微妙な違いがあり、この違いのために小さな変化でも異常な状態になりやすい配列もあれば、大きな変化が起きないと異常にならない丈夫な配列も存在する。そして、癌が生じる部位によっても、どの遺伝子に変化が起きた場合に癌になりやすいかが異なる。そのため、それぞれの人がそれぞれに固有なゲノムをもっているために、人によってどの癌になるリスクが高いかは異なることとなる。よく知られている例をあげると、BRCA1という遺伝子に変異が起きると乳がんになりやすいことが知られており、この変異が起きやすい遺伝子を持った家系の人は乳がんになるリスクが高い。

 

このような知見から、ある程度、人のゲノムを調べることによってその人が特定の癌になりやすいリスクを持っているかを分析することが出来る。既知の変異を受けやすい配列を持っているかどうかと、そのような変異を持っている人がどれぐらい統計的に癌になったかを結びつけることで癌のリスクを予測するのだ。しかし、明らかにリスクが高いと知られている変異を持っている人が癌になるリスクが高いと予測することは出来ても、その変異を持っていないからその癌にならないと予測することは出来ない。なぜなら、未だ全ての遺伝子と癌のリスクとの関係が網羅的に調べられた訳ではないからだ。人の膨大な遺伝子の微妙な差異と癌のリスクを結びつけることは統計的には可能ではある。しかし、特定の癌のリスクが高い共通した配列を見つけ出すために必要なデータの量に比べ、その配列を持たない人の癌のリスクが低いことを実証するために必要な癌と遺伝子の関係のデータは圧倒的に多く、それを行うのは現実的ではない。今の分析技術では、ゲノムを分析して、そのゲノムを持つ人が癌になりにくいことを保証することは出来ないのだ。

 

そして、これがiPS細胞バンクの最大の問題である。iPS細胞バンクは多くの人に移植が可能なHLA型を持つ細胞を収集する。そのiPS細胞のゲノムを調べ、もし既知の特定の癌になりやすい配列を持っていれば、それは排除されるだろう。しかし、そのような配列を持っていないからといって、そのiPS細胞が癌になる潜在的なリスクを評価することは不可能である。もし、iPS細胞の元となる細胞を提供した人のゲノム配列が未知の潜在的な特定の癌になりやすいリスクを持っていたとすれば、そこから作られたiPS細胞を移植した時にその癌になるリスクを抱えることとなる。しかも、恐ろしいことに、癌になるのはiPS細胞から作り出した臓器とそのiPS細胞が持つ潜在的な癌のリスクとが一致したときにリスクが上昇する。そのリスクが顕在化するのは、iPS細胞による治療が普及し、多くの人に様々な臓器が移植された後、長い期間が経過した後に特定の臓器を移植された人に癌が発生する割合が上昇するという分かりにくい形で起きるのだ。しかし、iPS細胞による移植を受ける人はそのリスクをあらかじめ知ることは出来ない。iPS細胞による治療例が膨大な数に上り、その中で癌が起きた事例を大量に集めて統計的に分析して始めて、そのiPS細胞株に癌になるリスクがあったことが明らかになるのだ。長い目で見ればそのリスクは明らかになることが保証されているが、患者の側からこの治療を見ると、自分が適合したHLA型のiPS細胞ストックに潜在的リスクがあれば癌になるし、なければ癌にならないで済むという予測不可能なギャンブルなのだ。将来の安全な治療のために人体実験を受けているようなものだ。

 

この心配は自身の細胞からiPS細胞株を樹立して移植する治療では全く生じない。なぜなら、そのiPS細胞が持っている潜在的な癌のリスクは、もともと自身の細胞が持っている潜在的な癌のリスクと一致するからだ。iPS細胞による再生医療によってその患者が持つ癌のリスクが変動することはない。一方、iPS細胞ストックを用いた移植治療ではiPS細胞樹立のコストがかからない代償として、癌になるリスクが高いか低いかは自分が提供を受けるiPS細胞次第で、しかもそのリスクを事前に知ることは出来ない。運が悪ければiPS細胞による治療によって癌になるリスクが上昇するし、運が良ければそのリスクは低減する。治療によって病気が治るか治らないかのギャンブルではなく、治療によって癌になりやすくなるかならないかのギャンブルを低コストの治療の代償として患者が行うことが求められるのだ。

 

保険による医療の提供は、万人に平等な治療機会を提供することが目的だ。治療が有効かどうかはどうしても個人個人で異なるのは仕方がない。しかし、治療とは別に将来の生存のリスクが変化する可能性がある治療は、果たして保険によって莫大なコストを負担して提供すべき治療だろうか?治療によって寿命が伸びるか縮むか分からない治療法が保険によって提供されるべき治療だとはどうしても思えないのだ。そのような治療法を確立するために税金によって莫大な投資が先行して行われることに大きな疑問を感じる。同じ投資をiPS細胞バンクのためではなく、もっと低コストにiPS細胞を樹立する技術の確立のために使えば、未知の爆弾を抱えた治療法ではなく自身の細胞からiPS細胞を樹立した再生治療が低コストで提供できるようになるのではないだろうか?今の方針でiPS細胞バンクが強引に進められれば、金持ちだけが癌になるリスクが上昇する心配のない自身のiPS細胞を使った治療を受けることができ、貧乏人は癌になるかもしれない爆弾を抱えた治療に甘んじるしかないというディストピアな未来が国民の血税によってつくられることになりはしないかと心配である。